ケープ・ライトのdiary

20150117


今日で阪神淡路大震災から20年がたちました。

その日ぼくは西宮市に住んでて震災のひどい揺れも、その後の混乱も体験しました。

震災から20年がたったなんて想像できないし、何よりあの時20年後のことを考える余裕なんてまったくなかった。
あの後時間がたってこのように家族や仕事場のスタッフと毎日楽しく過ごしているのは感謝してもし切れないくらいの幸運に恵まれているからだと思います。


当時ぼくは19歳でした。

世の中はすべてが秩序だったものだと思っていました。

信号は赤から青、そして黄色と順番に変わっていったし、電車は時間通り夙川駅に到着し、朝の8時に乗れば決まってギュウギュウ詰めで、午後の1時に乗れば必ず座れました。
アルバイトは9時45分にはじまり、1分でも遅刻をすれば1ヶ月間の時給がうんと下がりました。

それが1995年1月17日までぼくが見てきた世界でした。

でも一瞬にして住み慣れた街は崩れてしまった。信号もつかず、電車も動かなくなりました。
自宅の電気も水道もガズも何もかもがストップ。

テレビで震災の映像が流れると消防車のサイレンの音や、燃え盛る炎や、「早く助けろ!」という怒号などで現場は騒然とした印象ですが、実際の震災直後の被災地は驚くほど静かでした。

車も電車も走らず、人々は(ぼくも含め)何が起こったのか分からず、静かにいました。
静かに公衆電話に並び、静かに給水を待ちました。

目に見えていた秩序は脆く、信号も電車もストップ。アルバイト先は火災で燃えてしまいました。

目に見えない秩序はこういう時もへっちゃらなようで、みんな列になって給水や炊き出しに並びました。
一番近くで営業している銭湯の場所を教えあい、信号だって消えていたのに渋滞の国道はクラクションを鳴らす車はありませんでした。

崩れたもの、崩れなかったものをこの目で見ることができたことはぼくにとって、これまで生きた中で最も重要な事で、あの強烈な揺れとともにその記憶は忘れないものだと思います。


ぼくは、震災の起こった時19でした。
震災まで約20年生きて、また震災後も20年生きました。

これから震災後に生きた時間が長くなってゆき、少しずつ震災の記憶も遠いものになってゆくのだろうけど、せめて1月17日だけはじっくり地震のことを考えたいと思います。

そしてあの時感じたことをいつまでも大切にし、若い娘たちに伝えなければと改めて思います。


今日は滋賀まで家族撮影に呼んでいただきました。
本当に仲の良い家族で、2歳の息子コウタくんはすっかりぼくにもなついてくれて、家の中を走り回り、みんなで大笑いして撮影を続けました。

毎日家の中で繰り広げられているかもしれないけれど、思いっきり幸福なこの光景に立ち会えることに感謝にしなければと思います。

そう思って運転中の帰り道。道路はキラキラ輝いていました。


河田洋祐

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